水面座高校文化祭 1巻

水面座高校文化祭 1 (アフタヌーンKC)

水面座高校文化祭 1 (アフタヌーンKC)

その文化祭、雨・槍・隕石、何が降ろうとも決行!


共学化されてより三年、元女子高の伝統も過去のものとなった水面座高校。
三年間実行委員長を務めてきたスーパー実行委員長・花屋敷都の指揮の下、
普通のようで普通じゃない、どこか浮世離れした文化祭が開幕する・・・

くおんの森や童話迷宮で独自の世界観を打ち出した釣巻和氏の新作と言うことで、
期待しない選択肢など存在しなかったわけですが、
これまた見事な現代ファンタジーっぷりです。
文化祭を話の主軸に置いた作品としては、
準備期間から閉幕するに至るまで祭りの主役たちを描いた『銘高祭!』が記憶に新しいところ。
しかし、同じ文化祭って題材一つ取っても描き手によってこんなにも変わるものなんですね。
表紙を開けた瞬間から開催前日特有の追い込み作業から始まっていて、
のっけからトップギア全開のレッドゾーン突入状態で気分が高まりますよ。

この感じはまさしく祭りを楽しみにしているときのそれです。
自分自身、高校時代の文化祭(と言うか高校生活そのもの)にあまりいい思い出がないので、
こんな文化祭だったらきっといい意味で一生忘れられない思い出になったんだろうなぁ。
前日で大変な時期だからと炊き出ししてくれる学食のおばちゃんたちに、
無償で物資を提供してくれる商店街の人たち。

学生たちの手だけではない、もっと多くの人たちの手もあってこそ、
文化祭は文化祭として成り立つものであるとも言えます。


文化祭と言えば、普段学業に勤しむための学校が、
ほんの一時だけ全く違う世界に塗り替えられるある種の異世界
いつもと異なるのは、認識していないところでも大いにあるのかもしれません。
開催当日を迎えた祭りの当日対応に追われる忙しさの中、
所々で現実離れした光景が見られるわけです。
学校の備品として、教材としていつもは扱われている者たちも、
この日ばかりはと祭りに繰り出しているあたりは最たる例です。

歩く人体模型にモーツァルト肖像画の中の人と、
学校の七不思議が一箇所に集結しているだと言うのに、
『仮装』の一言で済まされてしまうのはまさに文化祭マジック。
人体模型とモーツァルト焼きラーメン食べるとかどんだけシュールな図なんですか・・・
とは言っても、文化祭だからの一言では済まされない事件も多々あります。
唐突に自称宇宙人が出てきて隕石が落ちてくるだの、
気に入った人を道連れに連れて行こうとする女の霊が出没するだの。

オカルティックな話に留まらずSFめいた要素まで出てくるのは
祭りと言うには相応しいのかもしれませんね。
そもそも表紙を開けた時点の遊び紙からして仕掛けがあります。
半透明のそこには次のページの吹き出しが書かれているわけですが、
当のページには書かれていない謎の言葉がいくつか・・・
果たして誰が何を思って言った一言なんでしょうね。
話の展開的なもの以外にも開幕に都さんにかぶりものをかぶせられて以後、
ずっと装着し続けているために未だ判明していない草野君の素顔とか、
仕事だけはきっちりやって行方を常にくらましている生徒会長の存在とか、
いきなり謎だらけですよ。


何かがおかしい、何かが現実とはかけ離れている。
そんな水面高祭を取り仕切る実行委員長の都さん。
とにかくそのカリスマ性が半端じゃないです。
自分も高校時代に実行委員をやった経験はあるけれど、
こんな活気めいた準備期間など身に覚えがありません。
むしろ面倒ごとだけ押し付けられて逃げられたくらいです。
ひとえに自分にそう言う統率力とか求心力がなかったからですが、
都さんのようなアグレッシヴさが少しでもあったらと思いますよ。
この人の下でならいくらでも協力をしたい、
自然とそう思ってしまう何かがあるんですよね。
生徒たちのみならず学食のおばちゃんたちや商店街の皆様まで惹き込んでしまい、
存在感以上のアグレッシヴさで全ての人を牽引してくれるその魅力は本物です。
文字通りカリスマのかたまりですねまったく。
存在感以上にその言動が伴っているからこそとも言えます。
屋上から人が落ちそうになれば自らの危険を顧みずに手を差し出し、

相手のことを外見などのうわべだけで判断せずに
人間そのものとしての本質をきっちり見てくれる。

可愛い以上に漢らしいです。
繰り返しになるけれど、こういう人の指揮下で文化祭をやってみたかった!